日記3

 ついに連休中に任天堂switchを購入出来たので、「これで現実世界といったりきたり出来るぜ!」と思っていたが、そう上手くいかないのであった。

 現実がキツイと中々息抜きが出来なくなるのかなぁとか思うが、とりあえず今はイカすゲームの方を楽しみたい。

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日記2

 最近、集中力が落ちたなと思う。

仕事は中々集中できずにちょっとトイレ…と言ってウロウロしたりと、どこか焦りの気持ちや不安な気持ちが入り混じっていて中々作業に集中する事が出来ない。

困った。困ったことがどんどん出てくるが、人生は困ったことしかなので仕方ないのだろう。

ただ、毎日毎日集中していたら頭が爆発してしまうと思うので、日によって変わる事もあるだろうから「集中ができる日」が来ればいいなと思う。

問題は、最近趣味にも集中できなくなっている所だ。

たとえば映画。自宅で鑑賞していても急にソワソワしたりなぜか焦ってきたりして画面に集中できず、スマホをいじってしまったり、時間を確認したりしてしまう。

最悪なことは、レンタルしてきたDVDを観ないまま返却してしまう事だ。何を考えているんだ馬鹿。

映画館では、ある程度(言い方が悪いが)拘束された空間だから自宅鑑賞のような状態にはならないが、やはりソワソワしたりして集中出来ない事が最近多くあり、画面やストーリーを追う事がままならない状態になっている可能性がある。

映画ではなく読書となると活字が読めないのか、一瞬でソワソワしてきてすぐに放棄してしまう。

前は集中して何時間かかけて読むことができたが、今は数分も集中できない状態が続く。

趣味に時間をかける事ができなくなってきているようで、今はそれが非常に不安な事の一つである。

クソったれな日々を忘れさせてくれるのが趣味だと思うのに、それに時間がかけれれないのがファックだ。

 

ところで、日記を書こうと思ったが、書いていると自分の生活の変化(悪い方に)しか書いてないので、ただのネガティブな感情を書き殴ってるだけになっている気がする。

 なので、今私がほしい物を考えた。

任天堂switch、PSVR。これがあれば、集中力が出てきて、仕事の効率が上がり、読書のペースがものすごく早くなる気がする。

特にVRは、現実から離れ(脳をだまし)完全に「世界」に入る事で、現実から乖離して新しい扉が開けるような気がするのだ。何となく。

とにかく今はゲームがやりたい。何かの懸賞で当たらないかな。

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日記1

11月1日、突然だが日記を付けようと思いついた。理由は無い。人生なんてなんの意味もないと思うが日々の記録ぐらいつければ多少はマシになるのではないかと思った。いや、何がマシになるのか。

毎日やる必要もないが、自分の感情を何かにぶつけたくなったら書いてみようと思う。

 

  突然だが、怒鳴る人が苦手だ。ついでに外で大声ではしゃぐ(主に大学生)が苦手だ。

怒鳴る、と言っても何か理由があるのだろう。

何となく怒る理由はうるせぇ声に紛れて耳から入ってくる情報を何とか聞き取れば理解出来ると思うが、大声を出されると身体が硬直してしまう。

パニック障害を患っているので、それに近い症状が出てくる(他、思考の停止、吐き気等)。また、どこへもぶつけられない感情が一気にたまり、我慢出来なくなると泣いてしまう。

同様に、誰かが怒鳴らている、大声で何かを言われている姿を観る/聞きいても同じ症状が出てしまう。

自分が怒鳴られているわけじゃないなのだが、聞こえてくるとどうも自分に言われている錯覚に陥ってしまう。これが一番厄介で、職場でかなり苦労している。

「気にするな」とか「受け流せ」と周りは思うだろうし、実際そうしないと生きていけないだろうが私の場合は昔からそれが出来ない。困ったものだ。

人はなぜ怒鳴るのだろうか。「怒り」の感情は誰にでもあるし、私もイライラする事もある。だが、怒鳴る前に一回相手の事、周りの事を考えてから発言出来ないのか。出来ないんだろうな、「怒り」の感情が先行しちゃうから。

周りが変わるんじゃないくて、自分が変わるしかないが、ストレスはどうしてもかかるので難しいな。

あと、外ではしゃぐのは、ちっちゃい子供は微笑ましいが、大の学生が電車とか街中で必要以上の、声のトーンを発生させたりする現場に遭遇するとビックりするのでその辺はどうか緩やかに滅んでください。

 

 今後、自分が怒鳴られたり理不尽なキレ方された時は『ビッグ・リボウスキ』のあのシーンを再現すればいいのではないかと思った(高橋ヨシキさんの話を思い出しながら)

「聞いてなかった」と。

ぶん殴られたらその時はその時だ。自分に正直になろう(暴力はよくないです。)

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『エイリアン:コヴェナント』&『猿の惑星 聖戦記』  さようなら人間

 

  この2作品を観終わって、人間は一度絶滅した方がいいと、同じ気持ちになったのでたぶんこの2作は同時に感想を書くべきなのだと思った。何となく。

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エイリアン:コヴェナントでは人間は徹底的に馬鹿になっていて、(一応)前作であった『プロメテウス』よりも退化しているのではないかと思ってしまうほどだ。馬鹿というか、宇宙を甘く見すじゃない?という

ぶっちゃけエイリアンとかどうでもいいので、マイケル・ファスベンダーロボが二人でイチャイチャするのを観て満面の笑みで観ていた。あ、エイリアンさんの登場とかエイリアンみたいな展開は、お約束のように楽しめたのでそこだけ良かったわけじゃないかな。

とにかくリドスコ御爺様はマイケル・ファスベンダーロボが大好きである事と、人間は宇宙の彼方へ行っても、酸素があればノーヘルで降り立ち、血で滑って転び、シャワーを浴びていたら襲われるという事がわかった。

それでもリドスコの巨匠としての腕のおかげなのか、ブレードランナーの続編を観る前に、ブレードランナーの続編を観て満足してしまった気持ちになり、これで良いのか複雑な気持ちもあったが…個人的に滅びゆく人類、そして新しい人(アンドロイド)が箱舟に乗り宇宙の彼方へ飛び立つ光景は「もう現実もこうなってしまえばいいのではないか」と一瞬、いやこれからもずっと考えてしまった。まぁ意地悪な映画だ。

 

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 一方で『猿の惑星 聖戦記』、でも「人間」が描かれる。愚かな人間、という部分では共通するかもしれない。だけどこちらの描き方には少しだけ真面目にというか少しだけ情あるというか…この辺りを「コヴェナント」と比較すると面白いのかもしれない。

まず、前半の1時間ほどは必要最低限の人間しか画面に映らない。映ってもすぐに次のカットには猿(以下、ここではエイプスといいます)が映る。あぁそうだ、これはエイプスによるエイプスのための、そしてシーザーの物語である事を改めて実感させられた。

創世記、新世紀、と続くシーザーの物語には「人間」は描かれている。結果として愚かな行いをしてしまって滅亡のカウントダウンが始まった創世記、生き残った人間が必死に生へとしがみつく新世紀と、このシリーズには人間が描かれてきた。しかし、本作聖戦記ではごくわずかな人間のみ描かれる。そこでもやはり、必死に生へとしがみつく姿は描かれているが、前2作よりもどこか冷たい。新世紀の最後に、人間は静かに姿を消したように、この世界にはもうわずかな人間しか残っていないのだろうなと思った。

 シーザーの物語にはやはり「人間」との交流が必ず描かれ、それが彼の行動を決定ずける事もある。少ない場面だが、本作にもそれが確かにあった。そこでのシーザーはもう、台詞ではない。顔が全てだ。彼は顔、主に表情で強く語るのだ。これは3作目であること、彼が背負ったもの重みが凝縮されていたようだった。

  そして、シーザーが最後にたどり着いた場所で流す涙を観て、このシリーズを見続けて良かったと心の底から思った。3部作(もう終わりですよね?)としてこれ以上ない出来だと思う。
個人的に、映画のバランスとか好みでいえば2作目の新世紀なんだけど(本作はちょっと全編眉間にシワ寄りすぎな気がした)けれど、人間のドラマは1、2作目を通して描かれていてそれをシーザーが背負ってからの今回だから、話としては納得出来る。
コバの幻影を観る(エイプスを殺してしまった罪を背負う事)それから人間を殺す事とか、シーザーの物語としては完璧だなぁ。古き人が滅び新しい人類が歩み始める作品としてもよかった。

『コヴェナント』と『聖戦記』では描かれ方こそ違うが、新しい人類が誕生する瞬間が見られる作品だと思う。そこに至る過程で、古き人類は猛烈に馬鹿か、愚かであるが、生へとしがみつく必死な姿(3作まとめて)の違いが面白いポイントだなぁと思った。

 

フレームアームズ・ガール 感想まとめ

  観ていてひたすら眼福であったアニメ『フレームアームズ・ガール』が終わった。

最終回まで観ると源内あおとFAガールが過ごした日常の経験によって、FAガール達の見えている世界はあおの部屋を通して少し広がった、そんな気がした。

 

 ・1話から最終回までを通して

 

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 以前1話を観た時に書いた感想を元にして最終回までの感想を振り返ってみると、意外と「時間」の経過を感じることが出来たし、何よりもあおちゃんの私服が変化しているのも嬉しい。作画をあおちゃんに振る事が出来たからかな。

「時間」で観てみると最終回はクリスマスまで季節が経過しているのがわかる。この辺も私服の変化が見ることが出来るし、FAG達と過ごした日々がより鮮明になっているんじゃないでしょうか。

手のひらに乗っかるような小さな彼女たちと人間のあおとの関係は、日常通して凄く近づいて最終的に轟雷はあおの苗字をもらうというよく分からない関係にまで発展するが…

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あおとFAGの大きさの対比のレイアウトも観ていて面白かった。こういうカットを入れてくると思ったら

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最終回Bパートでこんなカットも入れてきたり。一気にキャラクターが近づいた瞬間であった。

9話であおが熱を出した時に観た夢の中で、彼女たちと共に学園生活を送り卒業をする…という話があった。その中で同じ人間としてFAガールが描かれて(しかも2Ⅾで)いたので、このカットが入るのは必然だと思った。ちなみに9話はベスト級に好きな話だった。

 結局轟雷を以外のFAガールはあおの元から去ってしまうけど、そこには哀しみは無くて、彼女たちがあおと過ごした日常の経験をこの後活かすのかなと思うと観ていて微笑ましい。

そして全話観てみると徹底して「悲しい事」はほとんど描かれなかったと思う。

一応、最終回まで轟雷達の戦うべきライバルとして描かれたフレズもまた受け入れられた。考えてみるとキャラクターを描くバランスが良かったんだろう。

・まとめ

川口敬一郎さんと赤尾でこさんのコンビが非常に上手く働いたシリーズでもあるのかなと思った。

成長しない主人公を通して、FAガールは色んな経験を通して日常を過ごす姿は観ていてひたすら楽しかったし、何よりFAガールの声優さんも恥ずかしながら初めてお聞きする方が多かったけどとても良い演技をされていたと思うし、何より歌が可愛い!

そこに日笠陽子さんのお芝居が入ることで、良い味が出ていたんじゃないかな。

話も楽しくて玩具も欲しくなった(気がする)本当に良いアニメでした。

 

この薄汚れた世界で 『LOGAN/ローガン』

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 強烈な死の臭いがする。ローガンは冒頭から最後まで死の臭いが漂う。

アメコミ映画を観ているのか、X-MENシリーズを観ているのか分からなくなるような始まりだった。

物語冒頭、ローガンの車を壊そうとするチンピラに反抗するローガンの姿から始まる。

その姿は、足をふらつかせ身体がヨロヨロとして、すでに死期が近いように思えるほど衰弱している。

彼はローガンでそしてウルヴァリンである。しかし、その衰え方は見るに耐えない。チンピラに「車だけはやめてくれ」と言い、放たれた銃弾を自身が受ける。そして、力を振り絞ってチンピラを殺す。

そこには今まで観てきたような、ウルヴァリンのヒーローとしてのかっこよさなどは無い。だたそこで殺しが行われたという事実が残った。

 2029年、ミュータントはほとんど絶滅し、生き残ったローガンはプロフェッサーXを介護しながら生活している。ローガンはリムジンの運転手として働きなんとか生計を立てている。

世界は変わってしまった。すでにミュータントの問題など過去の出来事になっていた。

人類はミュータントをどうしたのか、明確に描かれていない。しかし、背景をちらつく悲惨な出来事、そして世界から漂う死の香り。この薄汚れた、乾ききった世界に、衰えたローガンとプロフェッサーは取り残されている。

そんな彼らと、ミュータントとして作られた少女ローラを組織が追ってくる。

組織は今までの敵(ヴィラン)に比べるととても小さい。しかし、それはどこよりもドス黒い吐き気を催す邪悪である。

 ローガン、プロフェッサー、ローラと血と暴力の旅の果てには終わりがあった。

その終わりは、どこか世界の終焉を観ているようで非常に辛かった。ローガンの物語は終わってしまったが、ローラはこれから歩み始める。彼女が歩き出す物語。そして、生き残ったミュータントである子供たちはカナダへと歩んでいった。

 正直、観終わって予想以上にダメージをくらってしまい、シリーズのファンとしてはかなり辛い映画だった。

ただし、ローガンであるウルヴァリンを演じたヒュー・ジャックマンには心からの感謝とお疲れ様でしたという気持ちでいっぱいである。

17年間、僕のヒーローを演じてくれてありがとう。これからも心の中で永遠のヒーローであり続けます。

 

『スプリット』あたなの世界と私の世界

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シャマシャマシャマラン、シャマシャマラン、シャマランの新作です。

ネタバレしてます。

 

・あらすじ

 謎の男(ジェームズ・マカヴォイ)に拉致されて監禁された女子高生3人組。男は23の人格を持っていた

多重人格(解離性同一性障害、DIDと呼ばれることも)を患う人物であった。

はたして3人は脱出することが出来るのか、そして彼の持つもう一つの人格が…

 

 M・ナイト・シャマラン監督の最新作。「シャマラン完全復活!」といったキャッチコピーを見た時は「シャマランはいつも通りじゃないのか」と思ったが、世間的な評価はあまりよろしくないようで。ってか前作『ヴィジット』でも「復活!」なんて言われていたと思うが…まぁそれは置いとくとして、本作はシャマランによるシャマランによるシャマランの作品である事は間違い無いだろうし、僕はシャマランの作品に対しては「シャマランなら楽しんでみる」という姿勢を持って観ています。

 

・彼の世界 

ジェームズ・マカヴォィ演じるケヴィンという男は解離性同一性障害(以下DID)であることは物語の序盤で分かりますね。

彼はいくつもの人格を持ち、現在は主に3人の人格が入れ替わっているようだ。

(追記:少し勘違いをしていました。最初に出てきた人格の男が「デニス」そして女性の人格である「パトリシア」9歳の少年の人格が「ヘドウィグ」であり、先生の前で装っていた人格が「バリー」であり、物語は主にこの4人の人格で進んでいきます)

かかりつけの精神カウンセラー「フレッチャー先生」の元へ何度も足を運ぶ彼ですが、その人格は「デニス」であると最初は示される。

しかし、後に、「ケヴィン」を装った「デニス」である事が分かります。「デニス」は女子高生3人を誘拐した人物であり強迫性障害な面がある。

この辺りのジェームズ・マカヴォイの演技は素晴らしい。フレッチャー先生との会話の中で人格が入れ替わるシーンがあるが、1カットでその入れ替わった人物をマカヴォイが演技をしています。

さて、ではなぜ女子高生を監禁しているのか。というと、実はもう一人の人格「ビースト」がもうすぐ誕生して、不純な若者を拉致して餌にするからだ。

不純な若者と言いましたが、これには例外があるようです。それは後程。

フレッチャー先生は彼が女子高生を監禁していることは知らず、物語の後半で分かる。そして「ビースト」なる人格もすこし懐疑的な印象。しかしそれも受け入れてカルテルに書いてる場面が映されます。基本的に彼を「理解しようとしている」人物である事ではないでしょうか。

 

・私の世界

 拉致されて監禁された女子高生3人組はケイシー、マルシア、クレア。

本作のもう一人の主人公である人物はケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)だ。

彼女だけどこか異質な雰囲気を出している。拉致される前も、マルシア、クレアから「クラスで浮いている」とか「わざと居残りされるためにイタズラしている」といった事が何気ない台詞で提示されます。そういえばこの映画、冒頭はケイシーの顔が印象的に映し出されていた。その瞳はどこか別の世界に生きているような、そんな雰囲気。

そんな彼女は、拉致されてパニックを起こしている他二人とはどこか違う雰囲気。

厳密には他の二人と同じく不安と恐怖心はありますが彼女の世界は違う。

それは後に、彼女が叔父から虐待を受けていたことが明らかになるからだ。

僕は本作を観ていて少し前に読んだ、高橋和巳著『消えたい、虐待された人の生き方から知る心の幸せ』という本を思い出した。

虐待を受けて育った子供は、他の一般的な家庭で育った人とは別の世界を生きている。厳密に言うと他の人ととの物事のとらえ方だとか、生き方が違っていると書かれていた。

たとえば、「どうすれば上手く相手を怒らせないように行動するのか」だとか、「時間」に対する考え方、ある時期まで生きて自分の決めた時期になったらこの世界から「消えてしまおう」(「死にたい」ではなく「消えたい」)や、とある患者からの発言を本文から抜粋すると

「今までは、人生をテレビでみているみたいで、コントロールできた。見たくもないものはスイッチを切るか、切らなければボリュームを下げた。そうすれば、目の前に動画が流れ私はただ眺めているだけですんだ。親の望んでいない自分は『処分される』と思ってきた。自分がいなかったので、私と家族と家の周りの風景はすべて客観的だった。

だから、私は周りには興味がなかった。興味がある振りはできるけど、根本的に興味がない。『なんでそんなに冷静に淡々と話せるのか』と、よく人から言われる。私は逆に、なんでみんなそんなに熱心に人生を語れるのかと思っていた」

受け入れがたい現実、つながりたくない現実から逃れるために解人症が起こる。あるいは、前向きに生きていこうとする「主体性」が途切れる時にそれが起こることもある。 

また、「死にたい」ではなくなぜ「消えたい」なのかというと

「死にたい」は、生きている、を前提としている。

「消えたい」は、生きたい、生きている、と一度も思ったことがない人が使う。

「死にたい」と思うには、その前提に、本当はこう生きたいという希望や理想がある。あるいは、人生のある時期、楽しく生きてきたという経験がある。でも、何かの事情で、自分が望んできた人生が実現できないと分かり、その時に人は死にたいと思う。

中略

一方、虐待を受けてきた人の「消えたい」には、前提となる「生きたい、生きてみたい、生きてきた」がない。生きる目的とか、意味を持ったことがなく、楽しみとか、幸せを一度も味わったことのないひとから発せられる言葉だ。今までただ生きてきただけで、何もいいことが無かった、何の意味もなかった。そうして生きていることにつかれた。だから「消えたい」…

  僕は映画を観ていてこの本がずっと頭を過っていた、もちろん「虐待」が本作の完全

なメインのテーマである…とは思わない。

ただし、ケイシーは叔父から虐待を受けている事が分かる。そして、クラスからの孤立、家に帰りたくないあまりの「わざと居残りをする」幸い、彼女自身はまだ精神的な症状は出ていない、ただし、彼女たちを監禁したケヴィンはDIDである。

・彼の世界と私の世界

物語は、最終的にケヴィンの「ビースト」の人格が解放され世界へ放たれる。

ケイシーは一人生き残る。それはなぜか、「ビースト」である彼の口から「お前は違う(すいません、この辺曖昧でした」的な台詞を言われ見逃される。彼女は監禁から解放され、また同じ世界へと帰ってゆく。「ビースト」から観た「不純な若者」とは違う彼女。

しかし、最後の彼女の顔、瞳には今までとは違う何かがあるように思えた。少し違った世界の見え方が彼女に芽生えたのではないか。叔父との接し方が完全に変わるわけではない、だけど彼女もまたこの世界で生きてゆくのだ。

 本来交わる事の無かった人物が、あるきっかけで出会い、もしかしたら彼は私だったのかもしれない、彼は彼女だったのかもしれない。お互い、住んでいる世界は同じであった、だけど彼は新しい世界へと解放された。

 

・まとめ

虐待を受けた人物を美化している作品とは思わない。

彼のやった監禁は立派な犯罪だ。しかも「ビースト」は残虐な人喰いの殺人を犯している。それでも、許されないことをしたが彼の「解放」は彼にとっての救いだったのかもしれない。

本作は、私はこのような側面から観てしまいった。様々な見方があり、人それぞれ思うところもあるだろう。音楽の使い方や、撮影の素晴らしさ…等は僕はあまり詳しくないが、ズンズンといった音の使い方はとても良い。そして、配管だけの廊下(道?)を走る少女の場面は音も相まって素晴らしいシーンだと思った。

そして、本作驚く展開が、なんとあの『アンブレイカブル』と同じ世界であり(最後に「ブルース・ウィリス」のカメオ出演は驚いた)そして『スプリット』と『アンブレイカブル」を合わせた続編『Glass(原題)』が2019年に公開予定だそうだ。まさにシャマラテック・ユニバースの誕生である。シャマラン自身、過去の作品と立ち向かう姿勢も感じて、今から楽しみである。そして、『スプリット』は僕の大好きな『サイン』と並び「特別な一本」になった。ありがとうシャマラン。あんたすげぇよ。

 

参考文献:高橋和巳『消えたい、虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳