『エイリアン:コヴェナント』&『猿の惑星 聖戦記』  さようなら人間

 

  この2作品を観終わって、人間は一度絶滅した方がいいと、同じ気持ちになったのでたぶんこの2作は同時に感想を書くべきなのだと思った。何となく。

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エイリアン:コヴェナントでは人間は徹底的に馬鹿になっていて、(一応)前作であった『プロメテウス』よりも退化しているのではないかと思ってしまうほどだ。馬鹿というか、宇宙を甘く見すじゃない?という

ぶっちゃけエイリアンとかどうでもいいので、マイケル・ファスベンダーロボが二人でイチャイチャするのを観て満面の笑みで観ていた。あ、エイリアンさんの登場とかエイリアンみたいな展開は、お約束のように楽しめたのでそこだけ良かったわけじゃないかな。

とにかくリドスコ御爺様はマイケル・ファスベンダーロボが大好きである事と、人間は宇宙の彼方へ行っても、酸素があればノーヘルで降り立ち、血で滑って転び、シャワーを浴びていたら襲われるという事がわかった。

それでもリドスコの巨匠としての腕のおかげなのか、ブレードランナーの続編を観る前に、ブレードランナーの続編を観て満足してしまった気持ちになり、これで良いのか複雑な気持ちもあったが…個人的に滅びゆく人類、そして新しい人(アンドロイド)が箱舟に乗り宇宙の彼方へ飛び立つ光景は「もう現実もこうなってしまえばいいのではないか」と一瞬、いやこれからもずっと考えてしまった。まぁ意地悪な映画だ。

 

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 一方で『猿の惑星 聖戦記』、でも「人間」が描かれる。愚かな人間、という部分では共通するかもしれない。だけどこちらの描き方には少しだけ真面目にというか少しだけ情あるというか…この辺りを「コヴェナント」と比較すると面白いのかもしれない。

まず、前半の1時間ほどは必要最低限の人間しか画面に映らない。映ってもすぐに次のカットには猿(以下、ここではエイプスといいます)が映る。あぁそうだ、これはエイプスによるエイプスのための、そしてシーザーの物語である事を改めて実感させられた。

創世記、新世紀、と続くシーザーの物語には「人間」は描かれている。結果として愚かな行いをしてしまって滅亡のカウントダウンが始まった創世記、生き残った人間が必死に生へとしがみつく新世紀と、このシリーズには人間が描かれてきた。しかし、本作聖戦記ではごくわずかな人間のみ描かれる。そこでもやはり、必死に生へとしがみつく姿は描かれているが、前2作よりもどこか冷たい。新世紀の最後に、人間は静かに姿を消したように、この世界にはもうわずかな人間しか残っていないのだろうなと思った。

 シーザーの物語にはやはり「人間」との交流が必ず描かれ、それが彼の行動を決定ずける事もある。少ない場面だが、本作にもそれが確かにあった。そこでのシーザーはもう、台詞ではない。顔が全てだ。彼は顔、主に表情で強く語るのだ。これは3作目であること、彼が背負ったもの重みが凝縮されていたようだった。

  そして、シーザーが最後にたどり着いた場所で流す涙を観て、このシリーズを見続けて良かったと心の底から思った。3部作(もう終わりですよね?)としてこれ以上ない出来だと思う。
個人的に、映画のバランスとか好みでいえば2作目の新世紀なんだけど(本作はちょっと全編眉間にシワ寄りすぎな気がした)けれど、人間のドラマは1、2作目を通して描かれていてそれをシーザーが背負ってからの今回だから、話としては納得出来る。
コバの幻影を観る(エイプスを殺してしまった罪を背負う事)それから人間を殺す事とか、シーザーの物語としては完璧だなぁ。古き人が滅び新しい人類が歩み始める作品としてもよかった。

『コヴェナント』と『聖戦記』では描かれ方こそ違うが、新しい人類が誕生する瞬間が見られる作品だと思う。そこに至る過程で、古き人類は猛烈に馬鹿か、愚かであるが、生へとしがみつく必死な姿(3作まとめて)の違いが面白いポイントだなぁと思った。